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2011年5月 6日 (金)

『仇討』究極のリアリズムが描くのは武家の悲哀か現代社会への皮肉か

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 はいみなさん、ごぶさたでしたね。今回ご紹介するのは1964年の邦画です。
 もちろん白黒映画…え、なんです?あなた、邦画、まして白黒映画ってだけで苦手ですって?まあ情けない。映画好きを自負されてるのに、色のあるなしで尻込みなさるんですか?

 そんな食わず嫌いなんかせずに、せっかくテレビで放映されるのですからまあご覧なさい。この作品は傑作なのにもかかわらず、DVD時代の今ではセルは勿論、レンタルもない貴重なものです。
 私の中では『七人の侍』の次に位置する時代劇がこの作品。なんとしてももう一度ちゃんと観たくて、ヤフオクでレンタル屋流れの中古ビデオを手に入れたのがもう4年も前。
 これが5月13日午後1:00~2:45、BSプレミアムにて放送決定!!これを見逃すと絶対損しますよ。とりあえず録っときましょう。
 

 最初に見たのがテレビ、それもかなり昔。その後ももちろんテレビ放映のみの鑑賞なのですが、最後に観たのもこれまたずいぶん昔。しかし手に入れたビデオであらためてキチンと観ても、最初のインパクトはいささかも削がれませんでした。それどころかあらためてかなりのディテールまでしっかり記憶していたことに我ながら驚くばかり。
 それほど強烈な作品なのです。

『日本刀による決闘』というシンプルなテーマでありながら、さらに極限まで贅肉をそぎ落とした脚本は奇妙なほど静かな作品という印象を与えます。
 その分、役者たちの演技が冴えわたり、それによって描き出される人間模様は登場人物が少ないにもかかわらず、実に多彩。
 反対に映像では時として単純とも思える大胆なカット割りでありながら、卓抜した演技と要点を突いた演出によって描き出される登場人物たちの心理描写は実にきめ細やか。

 いつもの私なら極力オチやストーリーに触れる事は避けますが、このお話に関しましてはもう最初から明かされてしまうので語ってしまいますね。見るべきなのは、肝心なのはそのプロセスだからです。
 それでも初見の印象を大切にしたいと思われる方は、次の紫文字部分を読み飛ばしてください。

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 物語は───
 江戸時代のとある藩での事、身分の低い侍の次男坊・江崎新八(中村錦之介・写真上右)はつまらない意地の張り合いから上級武士の次男、奥野孫太夫(神山繁・写真下)との決闘になり、殺してしまう。
 もちろん孫太夫の家族が黙っているはずもなく、孫太夫より強者だった兄の主馬(丹波哲郎)との対決にも勝ってしまう。奥野の家に残されたのは大人しい三男で、かつて新八を兄とも慕ほど親交のあった辰之助(石立鉄男)のみ。
 身分の低い江崎家にここまで翻弄された重役の奥野家のメンツは丸つぶれ。こうなれば藩としても解決に介入しないわけにも行かず、辰之助を盟主として新八を討たせる裁断を下す。

 切腹や打ち首ではないとはいえ、実質上の死罪判決を受けた新八とその兄・重兵衛(田村高廣)の、『仇討』の日の前後のいきさつをまじえながら、彼らの死に様を描いてゆく……。

 公開時の1964年は東京オリンピック開催、東海道新幹線開通の年であり、『モスラ対ゴジラ』『マイ・フェア・レディ』『007危機一発』『愛と死を見つめて』『西遊記(東映動画の記念碑的作品)』など家族向け作品が多かった中で、特異とも言えるこの映画を際立たせているのは、ふたつのリアリズム。

 ひとつは、映像のリアリズム。
 テレビの時代劇で育った方がこの作品をご覧になってまず感じられるのは、おそらく“かっこ悪いチャンバラ”という印象ではないでしょうか。斬りかかるたびにフラフラ、よたよた、肩で息を切らす主人公。

 逆にリアル撃剣マニアな私の場合はそこに惚れたんですよ。
 チャンバラをチャンバラたらしめる日本刀は、そもそもが別名“人斬り包丁”と言われるようにそれほど特別な刃物ではなく、いくら切れ味鋭くとも打ち合えば刃は欠け飛ぶし、所詮は鉄製品ですから扱いが悪ければ曲がるし折れるんですね。
 そして何より長さ1.2mほどもあるのでそれなりに重く、竹刀と異なり反りがあるために定められた使い方をしなければまともにまっすぐ振ることもできないのが日本刀。反対に、使うべくして使われた場合は、肉も骨もまさに一刀両断することができるのも日本刀。
 しかし振れば振るほど重さを増し、戦うほどに腕はしびれ、特殊な足運びをするためにじきに脚は萎え、すぐ息は上がる。爆発しそうな心臓の鼓動に耐えて戦い続けても、少しでも刃が触れればカミソリで切ったように皮膚や肉は切り裂かれ、斬れれば肉や血が飛び散る。
 でも、よほど実戦経験を積まなければ恐怖心と極度の緊張から萎縮してしまって、刃先が相手に届くことさえ難しいとも言います。

 逆に「斬り合いは刀をより早く振り回せた方が勝つのだ」とは新撰組副長の土方歳三の言葉でもありますが、『仇討』でもまさにそんな展開が待っています。

 最初にモノクロを食わず嫌いしないでくださいね、と書きましたけど、ヒッチコックの『サイコ』のシャワーでの殺害シーンもそうですが、なまじ色が付いていないからかえって生々しく、また強烈な印象で心に訴えてくる。
 スプラッタムービーではないので必要以上に残酷な描写をする必要はありませんが、現実の残酷さを訴えるにはカラーではむしろ気味が悪いだけで、モノクロだからこそ迫力と説得力を同時に観客に伝えることができるのだと思います。

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▲奥野孫太夫の兄・主馬(しゅめ)役の丹波哲郎(中)と弟・辰之助役の石立鉄男(右)

 もうひとつのリアリズムは、人間模様。

 シンプルなテーマ、贅肉を落とした脚本とは申しましたが、この作品の登場人物たちの人間関係は意外に複雑。
 藩というのは今で言えば会社のようなものですが、その中味は身分の垣根こそあれども、多くの家族が寄り合って数世代にわたって幾度も婚姻を繰り返しながら、ひとつの巨大に絡み合った姻戚関係で成り立っているんですね。しかもみな同じ所で生まれ育つので、何らかのカタチで知り合いの可能性が高いわけです。

 主人公、その兄、主人公の許嫁、許嫁の父親、殺し合うハメになる奥野家の三兄弟、その伯父、兄の同僚たち、主人公たちの上司、さらにその上司、その上の藩主。
 このほかに、主人公を気遣う父親のような存在の和尚、その逆に仇討ちをショウとして楽しもうとする群衆、その群衆を目当てに商売しようとする人たちが登場します。

 物語そのものは新八にフォーカスを当てて進めていきますので、素直に観れば血気にはやった彼の顛末記として捉えられるのと同時に、彼の周りの人たちは何故もっと親身になってやらんのかな、ヒト一人が死のうとしてるのになんてヤツらだ、などと思えるシーンもちらほら。

 でもよくよく考えてみれば、家族を殺されて黙っていられるわけもないし、事情を知らない人にしてみれば単なる人殺し、同僚殺しが正義の名の下に裁かれる光景を観たいと思って決闘の場に集まってきてるだけなのです。

 さらに一歩引いて、もっと引いて俯瞰の目で観てみると、実はこの作品に出て来る人の誰もが、自分中心でしか物事を考えていないのだ、というオソロシイ事実に気がつくのです。
 もちろん、彼らの誰一人として悪意も作為もありません。
 みなそれぞれ自分たちに天から定められた“役目”の中で、自分たちに許された範囲の言動をしてるに過ぎないのです。

 そんなふうにこの『仇討』は、運命や立場に翻弄される人間の内面や葛藤を様々な角度から客観的に浮き彫りにして行くという、昔の邦画がもっとも得意とした手法で貫かれています。
 黒澤明の代表作『七人の侍』やそれに続く『用心棒』『椿三十郎』などの、リアリズムを追求しながらも、あくまでエンターテインメントとしてどれだけドラマチックに面白く展開できるかという作風とは対照的です。

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▲新八の兄・江崎重兵衛役の田村高廣

 しかし『仇討』は人物描写に於いてはじつにクールですが、底に流れるテーマは逆に熱い。

 公開された時代が時代なので劇中にさんざん『気狂い(きちがい)』という言葉が出てまいります。
 あまりに出てくるので、音声を削っていたらお話が繫がらなくなるほどです。
 でもけして世のつまらないクレーマーの真似などして「放送禁止用語だ」などと眉をひそめてはいけません。実はこの言葉がこの作品にとって、とても大切なキイワードになっているんですね。

 横道に逸れるようですが、松本零士氏の傑作、戦場まんがシリーズに『音速雷撃隊』があります。
 ミサイルを人間が操って体当たりするロケット特攻機“桜花(おうか)”を描いたお話ですが、突っ込まれた米空母の艦長が爆沈する直前に「(ミサイルで自爆するとは)気狂いめ!」と叫んだ後、部下から「いま、友軍が広島に原爆を投下したそうです」との報告を受けて「そうか…俺たちも気狂いか」とつぶやく場面で終わるのです。
 作中でいう『気狂い』は蔑称として使われているのではなく、英語で言うところの、クレイジー、または“いかれている”と同義の形容詞だと考えるべきでしょう。

 劇中、お殿様が老中と江崎・奥野の問題を話し合う場面で出てくるんですが、「気が狂っているのだと考えなければ、あり得ない」ことなんですね。それが常に帯刀してる武家社会に於いても殺人という行為そのものの捉えようであり、逆に手順を踏んだ殺人ならば肯定する武家社会でありながら、同時に不用意に刀をぬけば切腹ものというルールがある矛盾した社会であること。
 でも、『気が狂っている』と表現する以外に、こんな異常な行為やその捉え方は表現できない。間違っても『精神耗弱(せいしんこうじゃく)』などというワケの解らん言葉で置き換えてはいけないのです。
 同時に、個人対個人の決闘というカタチで描かれてはいても、『正気のままでルールに則って頃試合をする』というのは要するに『戦争』のことなんですね。そして武士とは『軍隊』のメタファーに他ならない。

 劇中飛び交う『気狂い』の単語はすべて、そこへ向けられていると考えるとつじつまが合う。
 この『仇討』という作品には、そんな哀れな生き様、死に様が無数に散りばめられています。

 あらためて考えてみますと、私ら日本人は子供の頃からちょんまげとか見慣れてるからいわばマヒしてますが、武家社会なんて、けったいな社会ですよ。
 戦国も終わって太平の世になって数世代、常に刀を差してはいても戦う必要はなく、警察機構としては奉行所や町役がいるから治安の役に立つわけでなく、それでも常に生命を的にして生き死にを考える事を義務づけられてるのが『侍』です。
 そんな特殊な立場の人間たちで構成された奇妙でどこか狂った社会、それが江戸時代の日本だったんですね。


 それにしても、なんといってもこの作品を傑作たらしめているのは主演の中村錦之介の演技。
 冒頭の登場シーンから、ずっと刀のツカに手を掛けたままのようにアドレナリン出っぱなしの緊張感をみなぎらせている新八。しかし手負いの獣のようにオドオドし続けながらも、常に「自分は正しいのだ」と自分に言い聞かせ続けて前のめりに日々を過ごすかのようなその後の彼の日常。

 新八の中では、二人を斬ったとはいえどもあくまで侍として恥じることのない正々堂々の勝負の結果であり、けして悪びれる必要も罪もないと信じてはいるものの、それによって起こった騒動に関しては迷惑を掛けた兄や家、そして藩に対しても責めは負わねばならないというジレンマに苦しんだ結果出した答えが『仇討ちの場にも正々堂々と挑むが、けじめとして辰之助に無抵抗で討たれる』だったんですね。
 それならば自分の正義は貫かれ、また辰之助の立場、奥野家のメンツも立つと考えた。
 だからやがて上から下されてくる“判決”にも、心静かに受け入れることができた。

 ところが、決心して決闘場へ来てみれば───。

 その気持ちをもろくも踏みにじられた彼の哀しみ、落胆、悔しさ、怒り。それが一気に噴出する芝居のもの凄いこともの凄いこと。
 やがて彼は本当に“乱心”してゆくのですが、心底から乱心したのか、分かっていたからこその行動だったのか。それは心の中をモノローグなどで描くことをしないこの作品では、あくまで観る側の中に答えがあるのです。

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 最後の竹矢来の中での“仇討”の場面は、TVで見慣れているような、テンポに載せたダンスのような芝居染み、飾り立てた殺陣とは無縁な、本当の意味での必死なアクションの迫力もさることながら、主人公・新八の心の揺れ動きをナレーションはもちろん、台詞など一切の説明的な部分を加えることなく、目、形相、叫び───まさに全身の演技だけで観る側に直接ぶつけてくるのです。

 そして当時弱冠21歳の石立鉄男が、中村錦之介とは真逆の“正常な人間の反応”の演技が見事な対照を成しています。
 まわりの共演者たちは黎明期から日本映画界を支えてきたとんでもないビッグネームだらけ。そんなベテラン俳優たちを向こうに回して、辰之助のいかにも“存在感のない”演技は驚くほどの存在感を得ています。
 かれはこののち『奥様は18歳』『パパと呼ばないで』『雑居時代』『水もれ甲介』などなど、当時を席巻したラブコメ路線ファミリードラマの看板俳優になって行ったことは周知の通り。さすがですね。

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 主要な登場人物もいたって少ないのですが、それでも田村高廣、丹波哲郎、神山繁、進藤英太郎、小沢昭一と、いかにも吟味されたキャスティングだと思わせる、実に個性的かつ重量感のある俳優たちが脇を固めてます。
 この頃の時代劇最大の特徴は、全編通じて“空気感”が格段に違うこと。とくに“真剣勝負”のシーンなどはこっちまで身がすくむほどに殺気がビリビリと伝わってくる。
 今の俳優さんとはまったく異なるのです。

 そんな、どの俳優さんも大好きなんですが、錦之介さん・高廣さん以外で筆者が特に好きなのが新八が孫太夫を斬ってから身を預けられる寺の和尚・光悦の役を演じている進藤英太郎さんという名優。

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 オールドファンにしてみれば、頑固オヤジと言えばまずこの人で、同時にこの人ほど頑固でなまぐさな和尚役が似合う俳優は他にいません。
『大岡越前』の榊原伊織役で知られる竹脇無我氏の出世作になったTVシリーズ『姿三四郎』でもこのまんまのイメージと姿で、講道館ができるまでの仮の道場として寺を貸していた和尚を演じられてました。

 他にも端役でいろんな方が出られています。

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 和尚に食ってかかってる雲助たちですが、右は常田富士男さん。そして左は『仮面の忍者赤影・金目教編』でオボロ一角といえば「ああ!」と仰るオールドファンも多いでしょう。はい、さすが東映作品ですね。

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 このラストシーンでもバックに聴こえてくるんですが、討たれることを覚悟した新八が五右衛門風呂で身を清めながら『武者追い唄』というのを唄うシーンがあり、古風なこの唄がこの作品のいわば主題歌がわりになっています。
 勇ましくももの悲しい、武士の覚悟と生き様を唄った歌なのですが、聴いているとなぜか身が引き締まる思いがするのは男のサガでしょうかね。
 あるいは侍というのは、男というのは、戦いの場に立つと、いつの時代もそんな単純な心根で死地に臨んでいったのかも知れません。

 最後に、監督はこの作品の前年、『武士道残酷物語』でベルリン映画祭グランプリを、そして1969年には『橋のない川』でモスクワ国際映画祭ソ連映画人連盟賞を、さらに1991年には『戦争と青春』でモントリオール世界映画祭エキュメニカル賞を獲得した今井正。
 このうち『武士道残酷物語』も同じ中村錦之介主演のとてつもない作品らしいのですが、残念なことに筆者も未見なのです。
 これを機に、いつかBSプレミアムで放送されると嬉しいのですが。
 

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 では、また、お逢いしましょうね。

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コメント

初めまして。ご訪問&コメントありがとうございました。こちらからもトラックバックしようと思いましたが上手くいきませんでした。
テレビでやってたんですね。長期出張中で気付かず録画もしませんでした。残念。
本作の中村錦之助の熱演とリアルな描写は時代劇の傑作といっていいでしょう。「武士道残酷物語」はDVDで見ました。レンタル探してみるとあるかもしれないですよ。

投稿: ヒッチ | 2011年6月15日 (水) 09:16

ヒッチさん、かえってお気を遣わせて申し訳ございませんでした。
こちらも近頃はめったにコメントなど頂かなくなったのでノーチェックでスパム扱いになっていて失礼いたしました。
いま、BSシネマはもしかしたらヘタなレンタル屋よりも頼りになりますね。
武士道残酷物語ももしかしたら…とも思いますが、もちろん見つけたら飛びつく所存です。
ありがとうございました。

投稿: よろ川長TOM | 2011年6月25日 (土) 22:05

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