『カールじいさんの空飛ぶ家』鑑賞後用ver./実はすごく意味深
はい、みなさんこんばんわ。先にお届けした【『カールじいさんの空飛ぶ家』夢の映像化はリアリズムから】のこちらが【鑑賞後ver.】、つまりご覧になった方のための“あと解説”です。
ですから、まだご覧になってない方にはかなりのネタバレ率となりますので、こちらの記事は映画をご覧になった後でお読みくださいね。
この作品、ふたりの老人の末路を描いたもので、哀しい話ではあるけど、悲しい話ではない。妻を失ったことは単なるきっかけに過ぎないんですよね。
最近の私が映画を観る場合は、可能な限り何も知らないままでのぞんでいます。ある意味、本の背表紙だけを見て『タイトル買い』しているのに近い。
そのほうが重たい脳みそがフル回転して、作り手が何を言わんとするのかが見えやすいと思うので。
だから今回の『Mr.フレデリクソンの空飛ぶ家』…いえね、劇中でほとんど『カール』なんて名前が出てこなかったもんで…実際、冒頭に登場する飛行帽の少年を見て、てっきり彼と近所に住んでる発明家のおじいさんとのお話だろうと思い込んだんですよ。
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そしたらなんとまあ、ボーイ・ミーツ・ガールになって、そのまま二人がくっついて、きれいにきれいに老けて行きますね。驚きましたね。
幼い時のふたりはなんだかチャーリー・ブラウンとペパミント・パティのよう。
その後に続く短いカットやきめ細かな芝居の中に、二人の幸福だった半生が見事に散りばめられている。こういう表現は本当に上手いですね、ピクサーは。
しかも、その短い間に物語のもっとも大切な伏線がみな散りばめられていて、どれもが適度に印象が残るように描いてある。
王冠のバッジ、ふたりの共同作業、想い出の写真とスクラップブック、そして“夢”───“目的”と、Mr.フレデリクソンの子供の頃からの“Cross My Heart(誓う、と訳してましたが)”の仕草。
しかし、ふたりには別離が待ってます。
こういうシーンは数多くの映画に登場しますが、つい先だって観たばかりだったこともあって、第81回 米国アカデミー賞の短編アニメーション賞を獲得した『つみきのいえ』と重なったんです。すばらしい作品でした。
でも、この作品にとってはここからが本当のスタートなんですね。
すっかり老け込み、足腰の弱った老人となったカールの日課は、きちんと着替えて玄関ポーチに置かれた椅子に陣取って周りの再開発工事をにらみつける事。
その構図はまるで『グラン・トリノ』のイーストウッドのよう。意識してるんでしょうか、それともあれって、アメリカの老人たちのスタンダードな風景なんでしょうか。
ただし、カールじいさんの風貌は老いてなお逞しいイーストウッドとは異なり、ツイードの似合うどっしりした雰囲気は往年のジャン・ギャバンかスペンサー・トレイシーみたい。
そこからのエピソードも上手いですね。
力なき孤独な老人の悲哀がひしひしと伝わってきます。
でも、そのあとがチト違う。まあ、ヤケのヤンパチになるにしてもちょっと端折りすぎでしょうか、もう少し思い詰めるカットとかは欲しかったんですが、たしかに小気味のいい旅立ち方ではあります。
ちなみに予告編では老人ホームのスタッフに思いっきりブーイングしてたんですが、本番ではやってないバージョンもあるんですね。
そして、まんまるころころ肥満少年のラッセル君の登場で俄然、賑やかを通り越して騒がしくなるこの作品。前回の『WALL-E』もそうですが、冒頭はパントマイムで、台詞が入った時点で本編…という二部構成的な流れ。
とはいえ、映画の基本、それはやはりお芝居、パントマイムですね。台詞はないけど身体全体、画面全体で見せる、演技で解らせる画面。ピクサーには常にそれがあります。
私みたいになんでも斜めに観ている者にしてみると、作品本数を重ねるたびに磨きの掛かるパントマイム・ギャグは笑うと同時にあまりの巧さに感動してしまうのです。実際、ピクサー作品は字幕なしでもかなり理解できる。
そして、ほんとうにキャメラがうまいですね〜!アニメーションなのですから、キャメラという表現は変かも知れません。
しかし不思議なものです。キャメラなんてないのに、ロングショットの使い方、パンニングの巧さはまるで名作映画の名キャメラマンがやってるよう。
なのにいくらアカデミー賞とか穫っても、アニメーション演出撮影賞なんてなかったでしょ。そろそろ時代が時代なんですから、アニメの賞の中でもっと細かくこしらえてもよさそうなんですけどね。
構図の取り方もうまい。
アップが続いたから次、ロングで行こうか…というテレビ的な場当たり的なローテーションではなく、たとえバストショットが続こうとも、必要でない限り無意味な使い方はしないという姿勢が見て取れる。
そのかわり使うとなったらクローズアップもロングショットも徹底的に効果的な使い方をしてますね。そこには必ず笑いや感激、驚き、時には恐怖が伴う。
私はついつい動画にばかり夢中になってしまいますが、音楽がまた実に味がある。
クラシックをうまくアレンジしてるところもそうですが、全体に流れている雰囲気は実は私のような世代には懐かしい懐かしいものなのです。
幼い頃にテレビで放映していた懐かしい時代…ですからチャップリン以後ではあっても戦前の活劇、またはフライシャーのアニメ…ベティさんやポパイの人ね。…それや、初期のモノクロ時代のミッキーマウスのバックで流れていたような蓄音機タッチの選曲なんですよ。
音楽史には詳しくないので下手なことは書けませんが、あれ、1920年〜35年頃のビッグバンドジャズのテイストなのではないでしょうか。チャップリンのサイレント映画のバックで流してるのもその辺かと。最近ではフランスのアニメ『ベルヴィル・ランデブー』がそんな雰囲気でしたね。
いうなれば、冒頭のニュースフィルムに出てくる1930年代の雰囲気がず〜〜っと続いてるんです。あの雰囲気もすごく上手に再現されてますよ。『ニュー・シネマ・パラダイス』なんか観てるとちらっと登場しますね。
あんまり上手なのでそれだけで笑ってしまいました。
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だけど、原題の『UP』はいかにも意味深。
ピクサーは毎回そうですが、派手なシーン、華やかな宣伝文句に気を取られていると実はとんでもない部分を見逃しているような気がします。
実際に地上のあらゆるしがらみを文字通り引きちぎって家が空へと舞い上がるという意味での『UP』であることはもちろんですが、永年の連れ合いを失って絶望している老人がもういちど夢に希望を見出す『UP』、そして忘れてはならないもうひとりの魅力ある主人公、ラッセル少年がひとつ上のステージへの成長を描くという意味の『UP』。
『シネマ・パラダイス』でもそうですが、ヘミングウェイの『老人と海』を引き合いに出すまでもなく、昔から老人と少年というコンビネーションは永遠の相棒なんですね。そうそう、『グラン・トリノ』もそう。
でもここで肝心なのは、“ヨボヨボで他者に同情されている哀れな年寄り”と“阿呆なクセに無鉄砲で生意気なクソガキ”…じゃだめなんです。少年は老人をちゃんと尊敬した上で、老人は少年の無知を容認した上で、“歳は食ってるが知恵者でタフネスなクソジジイ”と“どうにも頼りないがやる気と夢だけは大人以上のチビ助”として、互いに信頼と友情を抱いているところにこそ美しさがある。
だけどみっつのUPのうち、判りにくいのがラッセル君の成長話かもしれません。
あれだけ喋るのにちらっとしか出てこない重要な台詞を繋いでみると解るのが、どうやら母親は後妻さんで、しかも今は父親は亡くなってる事。
つまり今の母親と彼に血のつながりはない。こういう作品にしては随分複雑な設定です。
だからでしょうか、とにかく礼儀正しくて素直なんですが、“いい子”であることが仕事や義務でやってるように見える。そんな彼の当面の目標は“老人に親切にする”というもの。
でもそれは親切心から自然発生するものではなく、まるでRPGのクエストみたいなもののよう。自分の意思によるものではなく、お座なりのルーチンワーク。
この辺、実は痛烈な皮肉をはらんでるんじゃないでしょうか。
さらに他の例として、老人ホームからやってくるヘルパーたちの言動、おじいさんを裁判所から送り届けてきた婦人警官。みな、“お仕事”で“親切”を切り売りしてるという表現ですね。しかしボーイ・スカウトの事はよく知りませんが、もしかしてこの作品では偽善の象徴として描いてあるんでしょうかね。
クライマックスでずっとフレデリクソン氏の言う事を聞いてきた彼が「もう、こんなもん要らない」ってバッジだらけの帯を投げ捨てますね。それまでは彼、のこり一個のバッジ欲しさにずっとフレデリクソン氏についていってたってことでもあるけど、逆に言えば“いい子”であることがきっと彼が継母にできる唯一の親孝行だと思っていた事であり、足かせにもなってたんでしょうね。
最後にバッジを受けるシーンで、呼び方こそ名前でですが、フレデリクソン氏に嬉しそうに継母を紹介しますね。ほんとはあそこも「ほら、あれがママだよ」と言って欲しかったんですけど、彼のややこしい家庭事情が説明不足でお客さんには解らないと思ったのかしら。
それとも、あくまで母親ではなく、個人と個人としての繋がりが深まったという程度なのか。
彼らと対極にあるのが自分に正直に生きてきた探検家、チャールズ・マンツ。
最後の方は完全に悪役みたいに描かれてますが、じつはすごく気の毒な人です。死なねばならないほどの悪党なのか、ということ。
じつは私がこの作品で一番ひっかかるのがここ。
たしかに飛行船での食事会のあと、彼の探検を邪魔しに来た人を次々と殺してきたかのような小芝居してますが、たんなる脅しで劇中ではほんとにそうなのかどうかまでは判らない。
夢の実現を阻まれた怒りのあまりフレデリクソンとラッセルを殺そうとまでしますが、ほんとにそこまでやる悪党として表現したのは作品のテーマとして正解なのかしら…との矛盾も感じたんです。
理屈で考えた場合でも、名うての冒険家で、嘘か誠かひげ剃りでなんだったかの猛獣を倒したとかなんとか自慢してましたしね、いくらフレデリクソン氏よりウンと(少なくとも四半世紀は余分に生きてる筈)年寄りでも、ホンキならもっと簡単に殺せるでしょう。
想い出の郵便ポストを壊されて、杖で人を叩いてケガさせたのはMr.フレデリクソン。
あなた、「あらっ!」と思いませんでしたか。たんこぶとかは別として、これまでピクサーでリアルに流血まで描くなんて、なかったでしょう。
ひょっとして、ここにこの作品のもうひとつのテーマが隠れているのでは…なんて思ったんですよ。
これは対照的なふたりの孤独な老人の物語でもある。一度は夢を失ったフレデリクソン。かたや夢だけを見続けてきたマンツ。
ふたりとも守るものは自分の身ではなく夢だった訳ですが、結果は自己防衛のための過剰反応。しかも、マンツの方は悲惨な最期を遂げてしまう。
殺して持って帰ろうとしたワケじゃないし、あれだけの犬たちをちゃんとしつけて育てていた彼、名誉欲だけで無情な行動をとっていたとするには少々根拠不足。
たしかに拉致された動物の末路は想像に難くないですが、彼が若い頃ならともかく、過剰な程に動物愛護を掲げる近代アメリカならそれほどは…?
むしろマンツの過失とはいえ、少年の前で人ひとりを死なせてしまったフレデリクソン氏、オマケにマンツの飛行船をちゃっかりせしめてしまったようにも見えるラストシーン。
車の色を数えるラッセルとのゲームはほのぼのしてるんですが、なんだか「これで本当によかったの?」と問いかけているような矛盾点がチラホラ見え隠れするんです。
しかも結局、フレデリクソンは奥さんと見続けた夢は叶わず、心の英雄にはガッカリさせられた上に当人を死なせてしまった。
マンツはマンツで最後の最後に自分のファンに夢を奪われた。
なんて皮肉な構図なんでしょうか。ご覧になった方で「後味がよくない」と仰る方が多かったのはこういうことではありませんでしたか?
ほんとはその辺もつっこんで描きたかったけど、ディズニーの配給だし、もしかしたら脚本の段階でオトナの事情があったのかもしれないな…なんて、いけませんね、また掘り下げすぎの、穿ちすぎた見方ですね。
後半のフレデリクソン氏は、達者なこと達者なこと、走る、走る。
これもちょっと首をかしげた人、多くないかしら。
たしかに痛快かも知れませんが、そこはそれ、ずっとリアルな描写で面白みを出してきたのにここに至ってアレはやりすぎですわね。
むしろ、はるかに年上の筈のチャールズ・マンツがあんなところでピンシャンしていた理由…たとえば実は犬を食べてたからとか…それは黒い冗句ですけど、実はあの滝に磁力とか不思議な力があって、それが若さの秘密…とか?で、それをフレデリクソンもお相伴したから彼にも作用した…みたいな、納得できる理屈は欲しかったですね。もしそういうのがアリならドンピシャで家があそこにたどり着いた事も説明できると思うんですが。
まあ私が言うと理屈っぽすぎますが、ピクサーなら冒頭のようにうまく演技や演出で観客にも理解させてくれただろうと思うとそこらへんが実に残念です。
とかいいながら、なんやかやで私けっこう泣かせて貰いました。特に王冠バッジの授与、そして敬礼!冒頭のカール少年のように、思わず画面に向かって敬礼しましたよ。
それにしても、ああ、ネタバレを気にせずに記事を書くのってなんて快適なんでしょうね!!
ではまた、お逢いしましょうね。
画像はすべて米Appleのトレイラーサイトから拝借しております。
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最後まで読んでくださってありがとうございます。ちなみに私───
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コメント
確かにマンツ氏の最後は驚きました。
それも含めてなんか完全に大人向け映画だった気がしましたね。
夢があるお話かもしれないけど、夢の顛末は
なかなかほろ苦いものがありましたもんね。
投稿: miyu | 2009年12月 5日 (土) 20:22
miyuさん、トラ&コメありがとうございます。
ある意味、マンツの最期はショックでした。工事現場での流血シーンといい、ピクサー内部になんかあったんだろうか…と妙な心配と勘ぐりをしてしまいました。
次回作ではできればこうした心配をしないで観たいものです。
投稿: よろ川長TOM | 2009年12月 5日 (土) 22:15
こんばんは、長TOMさん。
さきほどはコメントの削除訂正をわざわざありがとうございました。
2回くらい過去にも間違われてますので、気にしないで下さいネ!
(ホントウに削除しちゃいましたよ、、、)
こりずにあそびに来て下さいね〜。
投稿: mig | 2009年12月 5日 (土) 23:25
ども(^^)
今度は深読みですねー。
でも、ひとつだけ。
結果的に言うと、フレデリクソン氏は悪党マンツを殺してないんじゃないかと私は思ってるんです。
根拠は、マンツが落下する時、身体にいくつかの風船が絡まっていたこと。
あの高さだし、普通なら死にますよ。でもこの作品の場合、あの数があれば緩やかに落下かなーって思えるんです。それで「子供に配慮があるなぁ」って感心したんですよね。
あくまでも想像なんですけど。
でも、年の差は気になりました。
少なくとも20歳くらいは違いますよねぇ(^^;
投稿: たいむ | 2009年12月 6日 (日) 00:51
migさん、ご迷惑お掛けしました。
ええ、喜んでまたお邪魔させて頂きます〜〜。
たいむさん、どうも。深すぎましたか?
そうですねー。できればマンツ氏も生きていて欲しいですが…甘ちゃんだと言われても、そう描くのがこういう映画の義務ではないかと思うんですよ。
だって、夢でできている、夢を描く作品なんだもの。
だけど残念ながら、最初から最後まで風船の数次第でどの程度浮かぶのか、どれだけ浮かばなくなるのか…をきちんと正確に描いてきてしまった。しかもマンツが足を引っかけもつらせたのが風船のヒモ。なんて皮肉なんでしょうか。
とりもなおさず、そのへんだけはやたらシビアな作品でした。
投稿: よろ川長TOM | 2009年12月 6日 (日) 01:20
こんばんは、よろ川長TOMさん♪
>後半のフレデリクソン氏は、達者なこと達者なこと、走る、走る。
そうなんですよね。
割とお年寄り頑張る系の映画って好きなんですけど、そういうのってあまり無茶はできないけど、その中でハッチャけて頑張るってスタンスが好きなんですよね。
あの後半の未来少年コナンのような活躍っぷり。
足や腰の痛みはどうしたの〜?
その辺で違和感を感じちゃったのかも。
ま、"病は気から"とも言うし、生きる目的を見つけたので体も活性化した…のかもしれないですけどね(笑)。
投稿: ともや | 2009年12月 6日 (日) 20:50
こんばんは。コメントありがとうございます。
久しぶりにココまでの作品を見ました。3D字幕での鑑賞でしたが、3Dを使うことの意味をピクサーは良く解っているなと。某迷宮3Dとかと違い、飛び出してくれば良いのか立体的に見えたら良いのか、そうではないんですよね。私は常々映画はそれがフィクションだろうとアニメだろうと、そこに“ホンモノ”が描かれてなければ人の感動は得られないと思っているのですが、その“ホンモノ”を心の面でも映像的な面でも実現してくれていた作品だったと思うのです。
細かなCGの変化はよろ川さんも書いてらっしゃいましたがその通りで、フレデリクソン氏が旅立ってしばらくすると、無精ひげ、それも白い無精ひげが生えているのが見て取れます。どうせキャラクターなんだからそんなところまで拘らなくても構わないはずなのですが、そこに拘ってこそのピクサーであり、だからこそ優しい音楽に乗せた映像表現だけで、人の心に深く訴える、感情が直接流れ込んでくるような作品が制作できるのだと思いました。
素晴らしい作品であると同時に、得意のアニメーション分野だからこそ日本も負けてはいられないと。(笑)曽利監督あたりとジブリが合同で制作してもらえないかなぁ。
投稿: KLY | 2009年12月 6日 (日) 22:55
ともやさん、毎度です。二度にわたるしつこい記事におつきあいくださって感謝です。
まあね、でもランボー風にたすき掛けで再登場し、超活躍したあとでの“長もの対決”の時に互いに腰に来るシーンがあったので許せますけどね。
宮崎監督がよく仰ってる緻密に組み立てておいて「徹底的にでかいウソをつけば細かいウソは気にならない」の逆で、こしらえてる間に夢中になって、うっかりフレデリクソン氏がジジイだってことを忘れたんでしょうねえ。
KLYさん、ようこそいらっしゃいませ。
私は平面でしか見ていませんが、平面ですら充分な迫力でした。いわば、すぐれた画面構成の作品はモノクロでも色があり、サイレントでも音が聴こえるのと同じなんでしょうね。
曽利監督作品は観た作品がないのですが、『TO』は私が原作の星野之宣さんの大ファンで、誰か動画化しないかなあと思ってただけにいずれは拝見したいと思っている所です。
でもジブリとは違ったタッチですが、いまや日本には優れたプロダクションがたくさんありますよ。CGだけでは絶対にできない、でもCGをうまく利用することに成功したアニメーターたちです。
投稿: よろ川長TOM | 2009年12月 6日 (日) 23:49
こんばんは。
そうそう、引っかかりは私も感じましたよ。
もちろん完成度は圧倒的に高いし、面白いのですけど、ここ数作のピクサー作品は作家性を抑制している部分を以前より強く感じます。
「WALL-E」の後半の展開の違和感もそうですが、この作品で言えばマンツの扱いですね。
おそらくですけど、マンツはもっと切ないキャラクターとして作られていたんじゃないかと想像しています。
最後も、明確に殺すんじゃなくて、例えば足に風船が絡み付いて、彼だけどこかへ飛んでゆく・・・的な描写だったら印象も違ったでしょう。
この映画のマンツの最後はピート・ドクターのアイディアではない気がします。
詩的で異形のものを愛する彼のテイストとはかけ離れているし、実はこの部分は「ミスター・インクレディブル」にそっくりだったりします。
たぶん、ジョン・ラセターがピクサーだけでなくディズニーのアニメ部門のトップになったことと無関係ではないでしょうね。
良くも悪くも巨大な独立プロからメジャーの一部になったという事でしょう。
投稿: ノラネコ | 2009年12月 8日 (火) 23:22
TBありがとうございました。
ワタシ的には元ネタは日本の風船おじさんとおもっていますんで、その点、やられた感があり、日本で作れなかったかなあという思いがあるんでイマイチ乗れなかったです。
投稿: 佐藤秀 | 2009年12月10日 (木) 10:53
ノラネコさん、いらっしゃいませ!
魅力的であることは変わらないんですが、どうも以前のように幼児向け絵本のように素直に心に染み込んでこなくなっているのが気になります。
絵本は絵本でも、“オトナの絵本”。どこか難解な含みがある。
マンツの最期もほんとに仰るようなものなら私も「アハハ、それみたか」で素直に喜んで記事も一本で済んだと思います。いや、実際ノラネコさんの仰るラストをスタッフが聞いたらきっと「ああ、そうすればよかった!!」と歯がみしたのではないでしょうか。
そういう意味でもちょっとした描き方の違いでガラリと変わる。
映画の魅力でもあり、こわさでもありますね。
佐藤秀さん、はじめまして!ようこそいらっしゃいました。
日本でこうした話を描ける…といいますか、無理なく描けるのはやはり宮崎 駿監督なんでしょうね。むしろ彼がこの脚本を書かれたとしたら、もっと素直な空の映画、飛ぶ事への賛美を描けたことでしょう。
でもそれはもうラピュタと紅の豚でやり尽くしておられる。
正直言って日本の若いアニメ制作世代はファンタジーがあまり上手くないと思います。高度な日本のマンガとアニメで育った世代には、素直な視点って照れくさいからどうしてもオトナの視点でしか描けなくなってるんですよね。
投稿: よろ川長TOM | 2009年12月13日 (日) 15:02
こんばんは。
TBが上手くいかなかったので、コメントのみ残させて頂きます。
もう冒頭15分の回想シーンに私はやられてしまいました。
あの描写があったからこそ、カールが風船を付けて家ごと冒険に出たという突拍子もない行動に説得力があるんでしょうね。
冒険家マンツの描写は確かに中途半端でしたね。
本当に純真な冒険家なのか、偽物を持ち帰って名声を得ようとしたのか、自分の熱意を穢されて卑屈な人間になってしまったのか、ちょっと判り難かったです。後半なんて完全に悪役だし…。
ただ、数個の風船を付けて落下させたところに、製作側の僅かな良心を感じましたけどね。なんせ、家が破壊されることなく滝の横に着地しているくらいですから、マンツも物凄く木が生い茂った所に落下して助かっているかも?と、強引に考えることもできますしね。
でも、グリム童話だって残酷だし、意外にマンツの最期はああいう方が納得する人の方が多いのかもしれませんね。
正直、私はウォルターを親元に帰したら、カールは天命を全うしてエリーの元へ旅立つものだと思っていたので、ラストで擬似親子(祖父孫)のようなやり取りをしている2人のシーンは、「綺麗にまとまり過ぎじゃない?」と少し醒めてしまいました。
ああ、こういう考えを持ってしまう自分が恨めしい。
カールとウォルターて似た者同士でしたよね。
カールはエリーとの結婚式の時ですら親族参列者が少なかったし、ウォルターにも複雑な家庭環境で孤独。そういえば、マンツのパートナーも犬だけ。
冒険を夢見る男って孤独なのかな…?
そういう意味では、エリーというパートナーがいたカールが一番幸せ者ですね。
投稿: ななんぼ | 2009年12月13日 (日) 21:50
ななんぼさん、お久しぶりです。
トラバの件、ご迷惑をお掛けしました。
どうもFC2はTypePadと相性が良くない時がありまして…。
マンツに関してはやはり悲観的にしか考えられません。それは、主人公に夢の実現をもたらした風船が、そのままマンツの夢と命を奪う原因になっていることでも確信を持って描かれているし、それがもっとも残念な点なのです。
ただ、彼がそうなったのも元々は本物の骨を持ち帰ったのにもかかわらず、誰にも信じられなかった為。
しかしそこでがんばって成功を勝ち取るという、アメリカンドリームの原点であるはずの名誉欲をこうまで皮肉に描いている所や、家は結局誰もいないままでぽつりと崖の上にある様子を観ても、なにか意図あってのこととしか思えないのです。
仰るように、よく眼を凝らして観てみると、実はみんな孤独な身の上というのもひっかかるのです。
これだけの疑問点をもしもなんらの意図もなくやってるのだとしたら、ピクサーというブランドもここが正念場なのかも知れません。
投稿: よろ川長TOM | 2009年12月13日 (日) 23:44
こんにちは。
2回にわたってのレビュー。
とても読み応えがありました。
この映画には不思議な体験をさせてもらいました。
よろ川さんが、おっしゃるように、
映画は、先入観がない方がいいです。
ぼくの場合、あの日本版予告編と
宮崎駿氏を軸にした感動路線の売り方のおかげで、
最初から「ボロ泣き」を覚悟していたため、
噂の冒頭シーンは、意外にすんなり終わってしまいました。
ところが驚いたのは、その後。
もう少し、前ふりがあるかと思ったら、
いきなりの旅立ち。
しかも、あっという間に、目的地“近く”に着いちゃうし…。
結局は、そこから滝に向かうまでがもっとも時間が長い。
で、そこに現れるのが、かつての憧れのヒーロー。
しかし、これがとんでもない悪役。
もう、すべてを裏切る方向に行って、
いっさい予定調和とはならず、
ほんとうに冒険活劇を楽しめたという感じでした。
ただ、その中に、チクリチクリと引っ掛かるものが…。
その最たるものが、なぜ主人公の憧れのヒーローを悪役にしたのか?
自分と亡き妻の夢を壊したのか?
ということでした。
それは、悪役らしい悪役が必要というハリウッドの要請と
そこに逆らおうとする作家サイドのせめぎあいから生まれたものではないでしょうか?
このあたりが、ぼくにとって
この映画が『モンスターズ・インク』のように、
単純に、「涙どばっ」にはなりえなかった理由のような気がしました。
他にも考えると、引っかかりがいろいろ。
この映画は、
どうも一筋縄ではいきそうにはないですね。
※しかし、スペンサー・トレイシーとは言い得て妙。
悪役は、ロバート・ショウのようでもありました。
(活躍した時代は違うけど…)
投稿: えい | 2009年12月21日 (月) 14:10
えいさん、無駄に長くてほんとにお恥ずかしい。
でも、あれもこれも、言いたいことだらけの作品でした。
ここまで書いて今更ですが、もしかしたら、おすシネよりもブツクサでの『惜しい映画』だったのかも。
宮崎さんのコメントって知らないんですが、私同様、過去のあらすじ部分から先の、本編をあまり評価されていないような?
ロバート・ショウかあ。
そう言われてフト思ったんですが、ジョーズでのロバート・ショウの役柄とこの作品のマンツ、ある意味『白鯨』のエイハブ船長をモチーフの中に取り入れてるんでしょうかね?その最期も含めて。
投稿: よろ川長TOM | 2009年12月21日 (月) 17:04
どうもこんにちは。
昨晩観てきたので、感想を書こうと思いつつ、数人のブロガーさんのレビューを読んでいました。
泣けてたくさん笑って、面白かったのですが、私もマンツが死んじゃった(かどうか解りませんが、そう思えました)とこや、よぼよぼ老人があれほどの荷物を引っ張ったり走り回ったり、ラッセルくん(あの、どうしてウォルター君って書いてるんでしょうか・・?)の家庭事情の複雑さとか、流血事件とか・・もう色々と引っかかったのは確かです。やっぱり、大人向けのアニメかしら?!なんて。
3Dで観ましたが、アニメーション自体が素晴らしくて、、3Dでなくても良かったのかな・・と思ったくらいでした。
>Cross My Heart(誓う、と訳して・・)
確か字幕では「十字を切って」と書いてました。吹替えだと違うんでしょうかね。私は解りやすいと思ったけど、子供がその字幕を見たら、あまり解らないのかも!?とか思ったり。
このレビューを読ませていただくと、色んなことを思い返して疑問が沸いてきましたが、昨晩はとても楽しめたので、これから楽しめたってレビューを書こうと思ってます。
時々TBなどいただきに来ますが、今年もどうぞヨロシクお願いします♪
投稿: kaoritaly | 2010年1月 9日 (土) 15:05
kaoritalyさん、ようこそいらっしゃいませ!
この作品にはものすごくたくさんのブロガーさんが書かれてるのに、よくこんなマイナーでひねくれたなところへお越しくださいました。
このふたつめの記事はあら探しやツッコミをしたかったわけではなく、大好きなピクサーの“陰り”のようなものを感じずにいられなかったので、自分の勘違いなのかどうか不特定の方に確認したいが為のメッセージのようなものでした。
余計な疑問を持たせてしまったとしたら申し訳ありません。
≫字幕では「十字を切って」と書いてました。
あれ?本番ではあのシーンをそう訳してましたか。印象が変わってしまいますね。
≫あの、どうしてウォルター君って書いてるんでしょうか
Σ( ̄ロ ̄lll) あれっっっ!ほんとです。何を勘違いしてたんでしょう。
ご指摘感謝します。さっそく訂正いたしました。うーん、なんでかしら。
作品が大人向けというより、作り手の心情としてなにか言いたいこと、含むところがあったように思えたんです。
他の例として、ウルトラセブンのとあるエピソードは、沖縄出身の脚本家が抱いていた当時返還前の沖縄の待遇などへの気持ちがベースになっているのは、ファンの間では知られた話です。
時として作家は、フィクションと言うカタチで他で言えない持論を展開することがあると思う次第です。
こちらこそ、これからもよろしくおねがいします。
投稿: よろ川長TOM | 2010年1月10日 (日) 02:02
日本語吹替え版を見た者ですが、
ラストの女性は「継母」ではなく「実母」では
ないですか?ラッセル同様黒髪でしたし。
字幕版は見てないので断言できませんが、
実父は離婚だか別居だかで別の女と
暮らしているように聞こえたのですが。
投稿: ゆかわ | 2010年1月17日 (日) 22:23
ゆかわさん、はじめまして&ようこそいらっしゃいました。
そうなんですか?吹き替えは知りませんが、名前は失念しましたが英語版では父親の話の後で「◯◯はママじゃないよ」と言ってたのでてっきりそうだと思い込んでました。
もう一度観る機会があったらちゃんと確かめて訂正いたします。ご指摘、ありがとうございました。
もし仰るように父親が生きていて別の女と暮らしているなら尚更ひどい話ですが。
いずれにせよ、ラッセルがややこしい家庭事情であることは間違いないってことでお許しください。しかし、そういう意味でもこれまでのピクサー作品とは何か違う匂いがありますね。
これからもよろしくお願いします。
投稿: よろ川長TOM | 2010年1月17日 (日) 23:43